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安心・安全を超えて2

28日の
安心・安全を超えて
を書くのは正直、結構時間がかかった。でも作業時間を削ってでも書かざるを得なかった。これを書くことがBlog開設の大きな理由だったから。

長い文章を読んでいただいた方はどう思っただろうか。
また、昨日の百姓仲間、あきらめちゃいけない!を読んで、「こいつは放射能汚染の野菜をくえっていうのだろうか?」と思った方も中にはいらっしゃると思う。

自分や家族の体をいたわり、安全な食べ物を求めるのは当然のことだ。小さなお子さんや体に不具合を抱えている方はなおさらだろう。

そんな方に、かなり前から「安全・安心を超えて」のような話をしたいと考え、直接話ができる場合はしてきたつもりだ。しかし、いつもうまく伝えられない。
今回もどうもそんな気がする。

伝えたいことはなんだろうか?

食べ物は天然の毒があるからもともと危ない、だから農薬や放射能がちょっとくらいあったって気にしなくていいんだよ・・・。
ということじゃない。

レイチェルカーソンは素晴らしいと思う。自らの観察で、大切な告発をした。著書「センスオブワンダー」を読んだ時間は私にとっても極上のものだった。
だけど、彼女の告発から始まった社会的な風は、結果世の中を動かしている。今や、少なくとも現在の農薬は「安全性」ということにかけては、魚毒性も含めかなり改善されていることも事実のようだ。
近隣の農家の方の弁、「おやじの代は農薬しょって撒きながら畑をいってかえってくると、虫はもう死んでたけど、このごろの薬はぜんぜん死なねぇ。」
で、「かといって量を増やすわけにもいかねぇからなぁ(^^)」

農薬は改善されている、少なくとも作物中の天然毒と比べて、無視できる程度まで小さくなっているということはお伝えするべきだと思う。当然、規定通り使った、という前提だが。

そんな状況の中で、「安全性の観点」から考えたとしても、食べ物に農薬が絡んでいるかどうかということに、現在はあまりに多くの労力をかけすぎているのではないか。「安全性」は大切だ。だけど、「安全性」にとって、農薬はもはやあまり大きなファクターじゃない。だから、農薬をかけていないから安全だ、というのは神話に過ぎないんだ。
それよりももっと別の観点でも食べ物をとらえた方がHappyなんじゃないか?
というのが、百姓を何年か続けたときに考え始めたことだ。

ちなみに、10年ほど前になるが有機JAS法の講習会を受けた時に、農水省の講師の方は言ったものだ。「有機JASの農産物は安全性を保障するものではありません。」この言葉を聞いて、その時実は私、驚愕した。
調べてみると、有機JAS法は「農業の持続可能性を高めかつ生物多様性含む農業生態系の健全性を進めるため」の国際規格を踏襲したものなのだから、この講師の弁は当然であることが後にわかった。(農産物の安全性は「GAP」という規格で担保されている。)

たとえばトマトはひとつひとつ個性があり、まったく同じものは一つとしてない。だから五訂増補食品成分表に載っている栄養はあくまで目安。
値段や食品表示がない世界にもし行ったとしよう。
ワタシ(生き物である人間)にとって、どのトマトがいいのか?という選択をするとしたら、人間の進化の歴史と、民族的文化と、おかぁちゃんの教えで普通の人は決めるだろう。生き物としてそれが一番正しいはずだ

それが「おいしそうか、おいしそうでないか」だと思う。

さて、「おいしさ」とはなんだろうか。食べてみて、甘いものは人気がある。当然だ。
甘さはエネルギーのサイン。飢餓ベースで進化してきた生物の正常な反応だ。
だが、甘さ以外の味を知っている人は、選択の過程の中で、様々なアミノ酸や有機酸、ビタミンといった「恵み」をとることができ、心と体がよろこぶはずだ。食べたひとはHappyになる。
アミノ酸や有機酸やビタミンは健康な食べ物にこそ豊富に含まれ、これはざっくりいって豊かなおいしさの源だ。

そのおいしさを知れば、子どもにも隣の人にも伝えられる。「おいしいね」と言い合えば、その人との関係性もHappyになる。食べてくれる人がいるからこそ、それをはぐくんだ畑の生き物も、畑が持続することによってHappyになる。畑が持続することによって、地域の生き物もHappyになる。Happyが拡がっていくのだ。

いや、こりゃ、当たり前のことだね。みんなそんなこと知ってる、と言われそうだ。しかし、それが結構なおざりにされてないだろうか?
スーパーで野菜を選ぶ場合には、実際には「おいしそうか」の観察の他に、「値段」と原産地その他の「表示」が考慮の対象だ。家庭の食卓を担う方はこれを一瞬でやりとげている。すごいことだ、と正直思う。
おいしそうか、おいしそうじゃないか?の装いは偽装が可能であることはみんな知っている。その偽装を見抜く一つの手段として、食品表示があるわけだ。

食べ物は天と地と生き物がつくる、と前に書いた。農薬を使ってなければ、生き物の力が関わっている可能性が高いわけだから、それはおいしくて高品質な食べ物である可能性が高い。私もそれを狙っているわけだ。しかし、それとて油断はできない。天然素材の有機物で作った堆肥やぼかし肥料だって、与えすぎれば作物はメタボになる。食べ物としては、メタボになれば、はっきりいって×だ。栄養価は低くなり、硝酸態窒素、リン等の集積で体にも悪いという話も聞く。おいしいはずがない。実際、メタボな有機農産物は意外に多い。

人にとって大切なファクターである食べ物の「安全性」は、その味・栄養価とともに食べものの本質を作るひとつの要素だと思う。ただし、完全な安全性は完全な味、完全な栄養価とともにあり得ない。

だから、私は多くの人にこう説明させてもらってきた。
「ざっくりいえば、食べ物の選択は「おいしさ」と「信頼」を基準だと考えたらいいと思う。そしてそんな食べ物を種類いろいろ、バラエティを大切にして選んだらいいと思う」

まずは「おいしさ」だ。おいしい農産物は、健康に育った野菜だ。そんな野菜は栄養価が高く、「食べるべき野菜」だと類推できる。だけど、固有のNegative Factorもありうる。だからいろいろたべるんだ。
次に「信頼」だ。信頼に足る人物が扱っていたり、作ったものなら、安全性は納得できる範囲であると類推できる。
「おいしさ」と「信頼」を過小評価し、生産履歴や表示だけで野菜を選ぶとしたら、私は"Happy"から遠ざかると思っている。

だから生産者として、私がするべきことは1.おいしいものをつくること2.信頼にたる生産者であること に他ならない、と思っていた。
おいしいものを作るためにもっと日々研鑽するべきだ。信頼を得るために、もっと話をしに行くべきだ。畑にももっと来てもらうべきだ。一番大切なのは正直に話をすることだ、と考えている。一番最後のところを、このBlogにも担わせている。

しかし、ことはおいつめられて・・・だった。

放射能汚染は、地域の食べ物すべてに、ほぼ同じように降り注ぐ。それが食べ物としての本質にどこまで影響するのか、測りかねている。
だから、
3.今は注意してみている。

安全・安心を超えて

今回はいつもに増して長くなります。しかもいつもどおり文字だらけです。ごめんなさい。

・安全・安心とはいえなくなった時代

これから先、空から放射能がどれくらい降ってくるか、わからない。
これから先、野菜がどれくらい放射能を吸うかもわからない。

今回の事故により、「有機や自然農法の野菜でも放射能に汚染されたら農薬野菜と同じだ」と嘆く生産者もいるようだ。
たしかに放射能が降った地域で生産された野菜は「安全・安心」とはもう言えなくなった。

深刻な原発事故と連日の報道を受けて、日常食べるのものについても、人々が心配し、不安になっていることはよくわかる。それは私も同じだ。
特に小さなこどもたち、妊娠中の女性が身内にいる場合はなおさらだろう。
しかし、生産者である私にとっても農産物への放射能汚染の影響はいまだ十分な形で見えてきていない。

私達(つまり私と妻)が化学農薬や化学肥料を用いない農法で野菜をつくっていることは確かだ。しかし、あえて誤解をおそれずいえば、それは安全な農産物を作るためではない。

もし、安全・安心ということばが、有機農産物や自然農法の農産物が、非の打ちどころがなく安全・安心という意味だとか、そこまでいかなくとも、それらが化学農薬や化学肥料を使った農産物に「比べて」安全・安心という意味だとしたら、そういう安全・安心な食べ物というものは実際にはありえず、それを直接的に求めるのは得策ではない、というのが私の持論のひとつめだ。

私達の野菜を食べてくれるお客さんの中には、「いつも安全な野菜をとどけてくれて感謝です」といってくれるお客さんもいる。私達は今まで一度も「安全」とか「安心」とかの言葉を自分の野菜にくっつけたことはない。だけど、そういってくれるお客さんは自分たちに対して「信頼」を表現してくれていると思っているので、素直にその言葉をいただき、私達も深く感謝している。

だが、一方では私達の業界が「安全・安心」の言葉を多用していることに、危うさを感じていたことも事実だ。そういう現状認識にも関わらず、それに対して、自分ができることが限られていて、いつも無力感を感じていた。
なぜ危ういとおもったのか。それはその言葉がちょっとしたことで全部ひっくりかえってしまう可能性があると考えていたからに他ならない。
いま、いよいよ「安全・安心」はひっくりかえった気がする。

「安全・安心」という言葉には実は中身がない。
いまからその理由を説明したい。

1.水を含め、すべてのものは過大な量を体にとりこめば毒になる、というのがひとつ。どんな体にいいといわれているものでも量のコントロールを誤れば、なんでも毒になりうる。
2.植物である作物は、多くの昆虫や動物からの捕食を免れるためにそれぞれの方法を使って自己防衛してきた、という進化の歴史を経ている。その中で殺虫剤に使われているような成分を自ら合成する植物もあり、微量ながら普通の作物でも天然の毒性物質を含んでいることは通常よくあること。
たとえばDDT全盛時代のアメリカで普通の人が農産物経由でとりこんだDDTは、そのアメリカ人がレタスによってとりこんだ天然毒性物質の1/20の発がん性しかなかったという報告もある。
ビョルン・ロンボルグ:環境危機をあおってはいけない,文藝春秋(2003)に掲載された論文だが、中西準子さんという学者のサイトでも紹介されている。
http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak266-1.GIF

詳しくは
http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak266_270.html
を参照ください。

この真偽のほどはホントはわからないと思うが、「DDTに比べて」普通の食品が決して安全とは言えないという可能性はあるだろう。コーヒーやアルコールはもっとリスクがありそうだ。
なぜこういう話になるかというと摂取量を考慮しているからだ。レタスと同じ重さのDDTを摂取したら穏やかな結果ではすまされないだろうが、そんなことは普通はおこらない。

また、平野千里:原点からの農薬論,農文協(1998)には、次のような事例・報告も紹介されている。
A)キャベツ・ケールに含まれるプロゴイトリン
アフリカ中央部で、宣教師がもちこんだキャベツを食べた現地の人々においてプロゴイトリンという含有物質が原因の甲状腺肥大が多発した。海藻由来のヨード摂取量が多い地域ではこうはならないが、内陸部でヨードが十分ではないために起こったとされる。
B)ダイコンに含まれるイソチオシアネート
(健康雑誌ではがんになる前の異常化した細胞の増殖を抑えるファイトケミカルという記述もあるが)慢性の肝障害、腎障害を起こす可能性が高いとされる。
C)セロリ等のセリ科に含まれるフラノクマリン
光増感作用(皮膚にはやけど、目には視力障害)があり、紫外線下でDNAへの変異原性がある。
セロリのフラノクマリン濃度は低いが、菌核病等のストレスを受けるとこの合成系が活性化し、急激な濃度上昇をおこす。
D)(先のDDTの発がん性についても報告した)B.Amesによれば、農作物に付着して摂取される合成農薬などの人工化学物質の総量は一人当たり0.1mg以下/日に対して、天然の有毒化合物は1.5g/日に達すると見積もることができるとしている。

製薬会社が膨大なコストをかけて毒性を評価し、残留しないことが確かめられている農薬は天然毒性物質よりも安全なのかもしれない、といったら言い過ぎだろうか。

3.毒は薬にもなる(^^)
薬は文字通り、ある種の毒性物質。一方、毒がまったくない中で育った子供は、虚弱になるような気がしないだろうか。
作物も時には乾燥ストレスを与えたり、食酢や木酢液で酸性ストレスを与えることにより、多少の気象変動などものともしない、強健で栄養豊かな作物を収穫することができる。ただし、これには土壌や日照といった基本的な生育条件が整っていることが必要。
こんなことをいっても怒らないでほしいが、健康で栄養豊かな食物である限り、多少の毒性物質はむしろ望みたいものといってしまいたくなる
フキノトウはこの季節、旬の野菜。このほろ苦い味は他に代えがたいものだが、これには発がん性があるといわれるアルカロイドが含まれている。しかし、この少量の毒物が冬の期間眠っていた免疫機能を目覚めさせ、春から夏にかけて病原菌や負荷の高い環境に体を備えさせる役割があるともいわれている。ワクチンみたいなものだ。


つまり、作物はそれぞれ固有の毒を含み、どれも食べ過ぎれば問題が起こる可能性が高いものだ、ということだ。それによる健康への影響を避けるためには、毒をさけて食べ物を選択するよりも、なるべく多くの種類の食べ物をたべる、ということで対応することが最も得策だと考える。
そのことを考えた場合、農薬をつかっていないだけで、国産というだけで「安全・安心」といえるのだろうか?

・化学農薬と化学肥料を使わないわけ
化学農薬については、レイチェルカーソンが沈黙の春で告発した時代と今はその成分や利用方法が大きく異なっている。日本で定められた使用方法で利用している限り、作物中の天然毒物と比べればそれによる健康被害を真剣に考える必要はあまりないのではないだろうか。

さて、私達が化学農薬や化学肥料を使わないのは、安全性のためではないと書いた。
それらを使わない理由は、作物が天と地と生き物の恵みでつくられると考えているからだ。
農薬や化学肥料、特に農薬は劇薬のようなもの。急性障害が出てどうしてもリカバリーしなければいけないときは有効だろう。しかし、副作用も大きいのだ。
副作用として無視できないのは、土壌中の生物相を破壊してしまう可能性。作物はその生育において、土壌中の微生物や小動物をはじめとする生物環境に多くを負っている。それを無視した栽培も確かに可能だが、それは人間でいえば栄養点滴だけで子供を育てようとすることと同じだと思っている。
生き物は生き物が育てるのだ。

土壌中の生き物たちの関係性は一朝一夕でできたのではなく、それなりの時間を経て形成されたもの、大切にしなければならない。

栄養点滴だけで育てられた作物と、生き物によって育てられた作物。その違いを体感されている方も多いのではないだろうか?私は就農するためにこの地にきて、野菜の本当のおいしさを知った気がする。慣行栽培でも近所のおばあちゃんの作った野菜がうまいのだ。
その理由はしばらく謎だったが、だんだんわかってきた。当地は農業の条件不利地である中山間地。圃場整備や土地造成とはほぼ無縁の土地だ。
その中では非効率といわれる小規模の田んぼや、法面(斜面)ばっかりの畑が存在する。素掘りの側溝・水路もまだまだある。
そうした中ではスキマがたくさんあり、生き物が暮らす空間もいっぱいあるのだ。また、大規模に化学農薬や化学肥料を散布するほどコストをかけられない経営が多いというのもあるだろう。廃物利用としての堆肥(生き物の餌である有機物)施用の継続も生き物をはぐくみ、彼らの存在が良質な農産物を作る基盤をささえているのではないか、と今は思っている。

・ざっくりいって、だが

ざっくりいってだが、おいしい野菜の「おいしさ」は健康に育っている証拠だ。さらにざっくりいって健康な野菜は栄養価が高く力があり、たべるべき野菜だ。私には自信がないが、化学農薬・化学肥料をもし十分な知識により賢明につかうことができれば、それでも、たべるべき野菜ができると思う。

野菜の選択は安心・安全という売り文句や一点のけがれもない栽培履歴ではなく、「おいしさ」と、生産者やそれを売ってくれる人が「信頼」できるかどうかで選ぶべきだというのがふたつめの私の持論だ。ざっくりいって、だが。

おいしさは、食べた人のからだと気持ちをHappyにする。一緒にたべた相手もHappyにする。食べた家族をHappyにする。おすそ分けした人をHappyにする。

地震が起きてこのかた、メディアで繰り返し流されるのは、政府の要人や学者の人たちの「ただちに健康に影響はない」という言葉だ。
これは「国産だから安心・安全です」「無農薬なので安心・安全です」という私たちの業界売り文句とダブって聞こえてきた。
ただちに健康に影響がない、ということは長く見れば影響が「ありうる」ということであり、その影響がどの程度かにより、対処が必要か、また対処ができるかどうかは
人により変わるわけだ。

そんな個々人の事情を無視して「あなたは安全だ」なんてどうして言えるのか!なのだ。原発事故の当局者は、個人の判断のよすがになるデータとその解釈について助けになる情報を、すみやかに、たとえ面倒で時間がかかっても、開示する必要がある。
それを言わないのは、相手(私を含む普通の人)を信頼せず、子供扱いをしているからではないのか。

食べ物には昔からリスクは付き物であり、それとなんとか付き合いながら人は世代をつないできた。
しかし、今回の事故によって放出され、これからも放出されるかもしれない放射性物質による作物への影響についてはたしかに別物だ。なぜなら、生産者がだれであろうと、場合によっては地域がどこであろうと、等しく同種の悪影響が及んでしまうという点だ。これでは、「いろいろなおいしい食べ物を食べる」という戦略が通用しない。

しかし、放射性物質によるリスクが、もし十分に小さければ、「食べ物の効用」と比べて無視してもいい、というのは「今までとおなじだ」と私は考える。

では、どれくらい十分小さければいいのか?

それは、個々人が自分の判断できめるしかない。当局がそのための情報ー継続的なモニタリングとその数値の解釈に役に立つ付帯情報ーを誠実に、広く公開し、それを私たちが粘りづよく見つめ、やはり誠実に考えていくしかない時代になった、ということだと思う。
国際放射線防護委員会(ICRP)によれば、放射線の影響の中には「確率的影響」というのがあるそうで、それは放射線の量によって、将来がんになる確率が増えたり減ったりする、というものだ。これはある値以下なら影響がない、とはいえない性質のもの。だから、同じ放射線量でも個々人の条件に応じて対応がかわるべきしろものだ。
難しい判断の典型だが、私たちはこれに向き合わざるを得なくなった。

・食べものの効用

さて、「食べ物の効用」と書いた。食べ物は私たちと私たちの家族の、からだと活動のエネルギーとなる。だから、私たちはすぐれた食べ物を選んで食べるべきだ。改めてざっくり言わせてもらえば、おいしく、信頼できるものほど効用が高く、そこに含まれるリスクが「受け入れられる条件内」である限りにおいて、それを選ぶべきであることは今までとなんら変わらないのだ。

しかし食べ物の効用はそれだけではない。食べ物のひとつである作物は、天と地と生き物のめぐみで作られるわけだが、作物だけでなく、生き物はそれぞれすべて、天と地と他の生き物にささえられている。
ウチのキュウリ畑にいるアマガエルはウチの畑を支えている命のひとつだ。実は私もその意味では同列である。

生き物のなかには人間も入っていて人間も他の生き物をささえている。
人間が作物を食べることで、作物がつくられた田・畑・里山・奥山・地域の生き物たちが、ささえられている。おいしいものを食べることにより、田んぼも畑も、里山も、日本も、地球もHappyになるはず・・・だ。


放射線のリスクはまだわからない。わかる為の情報は切実に欲しい。しかし、仮にそのリスクを私達は許容できるとした場合、
生産者として、私達は放射線のリスクを超える生産物を提供することができるだろうか?
食べてくれる人に、私達は放射線のリスクを超えるどんな話をできるだろうか?
それが問題だ。
プロフィール

rainfrog23

Author:rainfrog23
就農15年目、群馬県高崎市の野菜農家のおやじ。30代までは都心に勤めるサラリーマンだった。生き物がたくさんいる環境での仕事を望み百姓志願。農園の名前、みずき彩菜(さいさい)です。

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