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他人への不信と自身への不信

少し前にフリーペーパー「アグレコ」に掲載してもらったものです。
少々加筆し、こちらに再掲させていただきます。

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5月なかばに「美味しんぼ 福島の真実㉔」が掲載された雑誌が発売された。美味しんぼはこの号の後、当初からの予定通りしばらく休載するらしい。
 この連載で描かれた放射能による健康被害としての鼻血や倦怠感について、また、福島から避難するかしないかについて、メディアで様々な意見が飛び交っていたことを皆さんもご存じの事と思う。ワタシはこのところほとんど漫画を読む機会がないもので、この話題の連載も一切読んでいなかったが、このシリーズの最終話が掲載されたこの号のみ近所のコンビニで購入し読んでみた。
なので、この作品全体について、ワタシは特になにかを言える立場にはない。だけど、読んだ範囲、知る範囲でこの作品について書くことは「安全・安心」を考えるヒントのひとつになるような気がしている。

さしあたり、「真実」はいらない
ワタシとしては報道された「福島の真実」というシリーズ名を聞いただけで、若干食傷気味・・・という感じがしていた。というのは、(詳しい語義の検討は書略させていただくが)「福島の真実」というのは「福島のほんとうのこと」という意味であり、「ほんとうのこと」を示そうというからには、暗黙の前提として「ウソがまかりとおっている」状況がある、と作者は考えているのであろう、と思ったから。「真実」という言葉の裏側には作者の強い「他人への不信」がある、と私には感じられた。
 確かにうそは世間一般にあふれているだろう。ワタシも個人的事情からはじまって、毎日ウソ偽りなく生活しています!とはちょっと胸を張って言えない。放射能の健康被害、という社会的事情についても、利害関係者から発せられる様々な「ウソ」は実際に存在する、とワタシも思う。

 しかし、改めて申し上げるまでもないとは思うが、「ウソ」ではない「真実」も複数あるのが普通ではないのだろうか。ひろーい世間じゃ、ただひとつの事実をもって「真実」とする視点もあるし、それを「ウソ」と断定する視点も「真実」のひとつでありうる。なにかによる健康被害については、このへんは顕著だ。だって、世間一般の常識である「タバコは体に悪い・寿命を縮める」ということだって、80才、90才で元気にタバコを吸っている人にとっては「ウソ」でしょう?
 作者が取材後に鼻血を出したり、倦怠感を感じたことは事実かもしれない。また、他にも同じような経験をした方もいるかもしれない。しかし、それだけで、低線量放射線で体が壊れるということが「真実」だと言ってしまうとすれば、ワタシとしてはやはり早計だろうと思う。ある観察された病態の因果関係に普遍性があるかどうかを調べるのは、疫学のシゴトだろうけれども、その疫学で結論が出ていないので、みなさん困っているのである。さらに登場人物中の権威筋が「福島の人たちに危ないところから逃げる勇気をもってほしいと言いたい」と重厚に語ってるとなれば、その「福島」ってどこからどこまで?ということから始まって、鼻血だけで住む場所変えられんよなぁ、とか低線量放射線下で住むか住まないかを決めるのは勇気の問題じゃなくて、個人の判断の問題じゃないの?とか思ってしまう。

しかしながら、低線量放射線でも、鼻血や倦怠感の他、頭痛やめまいといった症状の人が増加する、という指摘も確かあり、その「疑い」があるというのは事実だろう。だから「疑い」の根拠さえ信頼できるものだったら、「疑い」であるだけで当面は十分だと思うのだ。信じるところは別にあるにしても、「疑いがある」と認めることは、自分の真実を否定するよりも格段に簡単なはずだ。これができれば、「じゃ、調べてみよう」ということになるのが、大人の対応でしょう。「疑い」の存在さえ合意できれば、自身被害を受けている、と感じている人に寄り添うこともできる。そして、これを当面は「真実」にする必要はない。むしろ「真実」の弊害の方が大きいのではないだろうか?その押し付け合いには歩み寄りや合意はあり得ないであろうからだ。

ちなみに、だからといって「美味しんぼ」は掲載されるべきではなく、作者や編集者は謝罪して撤回すべきだというつもりはない。「福島の真実」は作者にとってはやはり「真実」なのだろうし、共感する人もきっと多いに違いない。こうしたことで大切な点は、主張する自由と反論する自由、両者だということだと思う。

「わからない」つよさ
放射線の健康影響を心配する方の気持ちはよくわかる。しかし、天然の放射線の中で人類も進化してきている訳で、放射線を100%排除することはできないし、またする必要もないだろう。それでもセシウムゼロベクレルを求めることを、あるひとは「ゼロリスク症候群」と呼ぶ。実生活では様々な種類のリスクが存在しているにもかかわらず、ある特定の事物のみゼロリスクを要求することを指す。
 一方、学会系の原子力専門家は100ミリシーベルト以下の健康影響は、他のリスクに隠れてわからなくなるくらいなので安全です、とおっしゃる方が多い。よく考えると、この人たちもリスクは実質的にはゼロだといっているわけで、ゼロリスクを前提にして行動判断する(しなさい)という意味でやはりゼロリスク症候群だろう。ゼロベクレルの食べ物を求める人も、ゼロベクレルでなくても大丈夫だという人も、両者自分の信ずるところ(=自分の真実)は既に決まっていて、決して歩み寄ることはないだろう。つまり「どう考えましょうか?」とか「調べてみましょうか?」ということにはならない。
信ずるところが「わからない」人は逆に強い。なぜなら、リスクの本質は「わからない」ということであり、そのわからなさを前提に「どうするっぺ?」ということがリスク管理だとワタシは思うのだ。そこには他人へではない「自身への不信」の自覚がねっこにあり、だからこそ人のつながりを尊重し、それは歩み寄りをもたらす。

みんなで決める
 「みんなで決めた「安心」のかたち」 という本がある。

サブタイトルは[ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年]となっている。 広域のホットスポットとなってしまった柏で、地縁とは切ってもきれない生産者と、食べ物の産地は本来自由に選べる消費者が、流通をになう人やレストランのシェフ、測定所を始めたベンチャー企業家、地元在住の学者ら周囲にいる人たちと共に、自分たちの「地産地消」のかたちを決めていく記録である。

 地域に生きる生産者は、事故直後自らの生産物の放射能検査にはおよび腰だった。万一クロと出れば地域全体の農業に致命的な打撃が出かねない。一方、地元産物に強い不安を感じている主婦たちは、放射能がらみに消極的な地元生産者に不信感を持ち始めていた・・・。そんな状況から始めた関係者の円卓会議。最初のころは重苦しい空気だったという。しかし、ある幼稚園で行ったアンケート調査をきっかけに歩み寄りが始まり、独自の測定メソッドを設計してリスクを手なずけ、柏産の農産物の生産・消費、だけでなく地域の人と人のつながり、それをひっくるめた地域の「豊かさ」を維持する過程を、活動の中心を担った若手学者の手記+たくさんの当事者たちの肉声でまとめた立体的な本。
 もし、生産者が地域のいち生産者としての真実のみ、主婦が子育てのための放射能ゼロという真実のみを求め続けていたとしたら、崩壊していた豊かさがあったことに気づく。
それをこの人たちが実現できたのはなぜなのか?この本を読んで考えさせられた。

真実は、時に個人を悩ませ、人と人を戦わせる魔力をもつもの。だから「ホントのこと」を「バラッド(悲劇)」として歌い、送り出すこともたまには私達に必要かと思う。


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Author:rainfrog23
就農15年目、群馬県高崎市の野菜農家のおやじ。30代までは都心に勤めるサラリーマンだった。生き物がたくさんいる環境での仕事を望み百姓志願。農園の名前、みずき彩菜(さいさい)です。

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