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科学と神域

先月2月、安倍総理大臣は国会の施政方針演説で「原子力規制委員会が新規制基準に適合すると認めた原発は、その科学的・技術的な判断を尊重し、再稼働を進めます 」と明言した。一昨年5月の参議院予算委員会では、茂木経済産業大臣(当時)が「その安全性については独立した原子力規制委員会の判断に委ねると。そこで安全だと確認がされない限り、原発の再稼働はありません。安全が確認された場合には、その判断を尊重して再稼働を進めていきたい、このように考えております。 」と答えている。つまるところ、原子力規制委員会が「基準に適合する」と認めたもの(2015.2月現在では川内原発と高浜原発)は「安全が確認された」として再稼働を進めるということです、よね?

科学の役割
では、当の原子力規制委員会の田中委員長はどういっているのか
「(新規制基準に基づく審査書案が了承された関西電力高浜原発3、4号機(福井県)について)新しい規制基準に適合していることを認めた。安全でないとも言っていないし、安全であるとも言っていない。(2014/12/17) 」とおっしゃっている。その時の記者会見で、記者から「安倍首相が会見で、いわゆる規制委が再稼働に求められる安全性を確認した原発については再稼働を進めるという表現をされたのですが、再稼働に求められる安全性というのは確認できたという理解でしょうか?」と問われて「総理は政治家だから、いろいろなそういう言い方をされますよ。分かりやすくという意味で。でも、私の方は、安全とか安全でないとか、安全が確認されたとか 安全でないことが確認されたとかそういう言い方ではなくて、稼働に際して必要な条件を満たしているかどうかということの審査をしたということです。そのこ とイコール、では事故ゼロかというと、そんなことはないだろうと(後略)」なるほど、田中委員長は科学者としての立場をしっかり守っていると思う。客観的に見れば、世の中に「絶対安全」はあり得ない。
こうしたやりとりを聞くと、ワタシは就農まもなく受けた、有機JAS法の講習会のときのことを思い出す。当時の農林水産消費技術センターの担当官僚の講義は、冒頭の次の言葉で始まった。「有機JAS規格は農産物の安全性を保証する規格ではありません。単に、その規格が求めている基準に沿って生産されたものであることを示すだけです」では何のための規格なのか?その説明はそこでは割愛されていた。(ちなみにその答えは「農業の持続性」と「環境保全」である)
田中委員長の発言には、その農水官僚と同じ欠落があるとワタシは思う。それは「自分はなんのためにこのシゴトをしているのか、このシゴトをどのように役立ててほしいのか」というメッセージだ。

科学者に言ってほしいこと
科学ができることは、端的に言えば、「現在の知見からいえばAならばBである」ということだと思うけど、絶対安全というのがあり得ないということは「B=安全」はあり得ないということでしょう。安全ではないならば、どの程度アブナイのか、いざという時それは許容できるのか、そもそもアブナさと比べて十分な効用があるのか?そういうことを考えなくちゃいけないよね。それは科学の問題ではなく、価値判断の問題。別の言い方をすれば、それは自然科学の問題ではなく、社会科学の問題ともいえる。
つまり、不肖ワタシとしてはだ、田中委員長に「ここまでは言えるので、それを使って再稼働を判断していってもらいたい。政府はこれで良しといってるが、考え方によって、再稼働の是非は異なる。政府の方針は最終方針ではないので、皆さんの意見、私達の意見を集約して結論をだしましょう」とでも言ってもらいたい、独立行政機関の長であり、また今一歩、科学者の立場に忠実ならば。
自分の知っている限り、科学は政治にいいように利用されてきたと思う。ちょっとややこしいのをいいことに、目くらましのごとく「学識経験者によるなんたら委員会によって決められた」ことがあたかも金科玉条になる。

「つくる」と「できる」
安倍総理は規制委員会の見解に従って再稼働するといい、田中委員長は安全とは言っていない、再稼働を決めるのは政治家だ、という。でも、再稼働にむけて社会は動いている。
無責任、といえばそのとおりだろう。太平洋戦争やら、バブル崩壊やら、原発事故やら、「クライシスが起きても誰も責任をとらないことがモンダイだ」とたびたび指摘されている。ひどい事故が起きたのに、それに懲りずに再稼働という流れは、またまた同じモンダイが起きているともいえる。この根っこにはいったいなにがあるのか?
私見をのべさせていただく。あくまで私見なので、エビデンスはない。
米なり、野菜なりを育て、収穫したとする。「自分がつくった」と思えばその全責任は自分にある。うまくいけば「自分の努力が実った」となるし、うまくいかなければ「自分に落ち度があった」となる。一方、「お天道様と大地の恵みでできた」と思えばその責任の少なくとも半分くらいは自分ではない。うまくいけば「お天道様と大地のめぐみ」だし、うまくいかなければ「神様のおぼしめし」だ。そこではしかし、結果における自分の努力なり技術なりの関係性も理解しているだろう。それでもなお、自身をとりまく「天と地」をいつも意識しているからこそ、天と地を敬い、また恐れる。
この前者は西欧的、後者は日本的といえるかもしれない。自身の全責任で作物づくりをすれば、自身の責任で結果を分析し、対応する。どこまでやるか、の価値判断は自身に委ねられている。そこでは自然科学も発達するだろう。一方、後者は自身の外側にアンタッチャブルな「神域」を設定している。「神域」を設定することで、自分をとりまくものを継続的に意識してきたはずだ。さわっていい場所、さわってはいけない場所を設定することによって、クライシスを防いできた側面もきっとあるだろう。また「神域」の存在は分析科学が近づきにくい条件でもあっただろう。

現代の「神域」再設定
ワタシが思うのは、今の私たちは「神域あり」のメンタリティのまま、「神域」を見失っているのではないか?ということだ。鎮守の森や結界が西洋科学の流入と共にどこか陳腐化(ごめんなさい)してしまい、意識の中から消えたまま、日常の経済社会の中で自身の力がおよびにくいものー例えば「科学」だったり「権威」だったり「権力」だったりするものに手っ取り早い「神域」の身代わりをみてしまってはいないだろうか?もしそうであるならば、それは「錯乱」に他なるまい。
ワタシたちの現在は、「天と地」のメンタリティを持ったまま、西洋的な分析科学の翼も併せ持つ。その力を総動員して「現実」と向き合わなければ、と思う。そしてその課題のひとつが、納得ずくでたとえば「原子力技術」をアンタッチャブルな「神域」のひとつに格上げすることではないか、と思うのだ。
これを「神の力」を借りずに自分たちで決めるべきだと思う。神の力を借りる、ということは破滅的な事故を経る、ということであろうから。(以上 フリーペーパー「AGRECO」Vol.82,2015.03に掲載)
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農は「出会い」を増やします

「まちの保育園」という東京の保育園をご存知だろうか?たしか、この「アグレコ」の発行人も確か昔Facebookで紹介していたような・・・、ちがったっけ?
この保育園の大きな特徴は保育園とまち(地域)をつなぐ中間領域に「ベーカリーカフェ」があり、各々をつなげる人材としてコミュニティーコーディネーターという職を置いているということらしい。

教育とか保育とかの本質はコミュニケーション
これは、この保育園の仕掛け人である松本理寿輝(りずき)さんという方の言葉だそうだ。実は私の場合、ラジオネタが多いのだが、今回もラジオネタ。作業をしながらNHKの「すっぴん!」というラジオ番組を聞いていて、やっていたのがこの「まちの保育園」探訪記だったのだ。ワタシが実際に見たわけではない。
ただ今30代前半の松本さんは学生時代に上のように考え、保育園園児の安全性を考えつつ地域とコミュニケーションを図っていくためには、それ自身が魅力的な「中間領域」を併設したらよいのでは?というアイディアを持っていたらしい。そして、それを実現するステップとして、自らのコミュニケーションや経営のスキルを高めることを目的に、広告代理店に就職したりベンチャー企業を立ち上げる。そうした過程を経て、保育園を現在3つ経営しているらしい、いやすごい。
話を聞いて感心したのは、今の保育環境の問題点を「こどもが出会う人はほとんど若い女性しかいない」とみて、もっと多様性を高める工夫がいると考えたことだ。保育士のほとんどが若い女性であり、核家族における育児の担い手はその9割がたは母親であり、父親の育児参加時間は一日30分程度とのこと。発達段階のこどもには地域のもっと多様な人との出会いが必要なのではないか?というのが松本さんの問題意識だったのだ。そこから、地域の中に開かれた保育園が構想され、地域との接点をつくる機能を、保育園とくっついているような、いないような良質のベーカリーカフェと、子どもと地域社会をつなぐ専門職員に担わせるしくみをつくり、それは大人気を呼んでいるというお話だった。この事業の本質的なシゴトは単に保育に留まらず、子どもを核に地域づくりをしていくということともいえるだろう。

たべものの本質もコミニュケーション
この話を聞いていて、「こども」も「たべもの」も似ているなぁ、とワタシは思わざるを得なかった。
たべものにも、多様な生きものの関わりが欠かせない。そしてたべものを大切にすることが地域を豊かにしていくと思うのだ。
たべものは、タベモノである前にイキモノである。あれ、前々回だったかも同じようなこと書いたかな^^; たべものは、ヒトとヒトをつなぎ、ヒトとイキモノをつなぐ。たべものの先にはヒトがいるし、イキモノがいる。
ここで、もしヒトと自然はキホン別物である、という考えに立てば、たとえば、「どっちに合わせるか」という話になりがちなのではないだろうか。ヒトは自然と孤独に独立し、その責任をどう果たすか、かなりの難問がでてきちゃうのではないだろうか。(下図(1))
しかし、ヒトはイキモノの一種であり、キホン同等だと思えれば、これらの関係性を取り巻いているのは、ヒトの対立概念としての「自然」ではなく「天と地」である。(下図(2))
ワタシ達は、たべものを通して、ヒトと出会うこともでき、イキモノと出会うこともできる。ヒトを通してまったく知らなかった別のタベモノ・イキモノと出会うこともできるし、タベモノ・イキモノを通してまったく知らなかったヒトと出会うこともできる。これらはすべて「天と地と出会う」ということだ。

単にヒトとヒトが出会い影響しあうだけでは、そのヒトたちの多様性の範囲は限定的だ。いずれにせよお互いの世界に留まっている。しかし、天と地の多様性はヒトの多様性の源泉でもある。天と地との各々の関わり方でヒトの個性が際立ってくる、とワタシは考えている。
出会い20150129


天と地と、もっと出会いたい
少し前に、ソーラー発電普及の大切さを説いている方に、「パネルの廃棄に伴う問題点はあるか?」と質問したところ、「基本的にたいしたことはないと思うが、人間が文明の利益を享受する以上、自然にある程度インパクトがあるのは当然だ」という意味の答えが返ってきた。
ワタシに言わせれば、文明の利益を享受しようがしまいが、イキモノである以上、他のイキモノと同様に天と地にインパクトを当然与える。モンダイはどういうインパクトがどの程度あるのか、を考えなくちゃいけないのが今日この頃のワタシタチなのだ、ということなのである。
で、ある種のそれが、天と地の中でまるく収まるインパクトなのか、収まらないインパクトなのかを客観的に判断する基準、これはワタシはないと思っている。インパクトは少なければ少ないほどいい、という考えの方もたくさんいらっしゃることは知っている。しかし、私見をあえて言わせてもらえば、小さければいいというものではない。なぜならば、イキモノはイキモノを支えている。ヒトが生活することによって支えている生き物もたくさんいるのである。
ひとつひとつの具体をどう考えるのか、どうするのか。
それを決めるのは、社会であり、その社会を構成するおのおのがどう考え、どう合意していくのか、というのがモンダイなのである。
だから、ワタシ達は天と地との出会いをもっとふやさなきゃならない、と思っているのだ。「農」はそんな出会いにぴったりだと思うんです。どうでしょう?(以上 フリーペーパー「AGRECO」Vol.81,2015.02に掲載)
プロフィール

rainfrog23

Author:rainfrog23
就農15年目、群馬県高崎市の野菜農家のおやじ。30代までは都心に勤めるサラリーマンだった。生き物がたくさんいる環境での仕事を望み百姓志願。農園の名前、みずき彩菜(さいさい)です。

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