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食べ物ってなんだろう?からイロイロ考えてみる。

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科学と神域

先月2月、安倍総理大臣は国会の施政方針演説で「原子力規制委員会が新規制基準に適合すると認めた原発は、その科学的・技術的な判断を尊重し、再稼働を進めます 」と明言した。一昨年5月の参議院予算委員会では、茂木経済産業大臣(当時)が「その安全性については独立した原子力規制委員会の判断に委ねると。そこで安全だと確認がされない限り、原発の再稼働はありません。安全が確認された場合には、その判断を尊重して再稼働を進めていきたい、このように考えております。 」と答えている。つまるところ、原子力規制委員会が「基準に適合する」と認めたもの(2015.2月現在では川内原発と高浜原発)は「安全が確認された」として再稼働を進めるということです、よね?

科学の役割
では、当の原子力規制委員会の田中委員長はどういっているのか
「(新規制基準に基づく審査書案が了承された関西電力高浜原発3、4号機(福井県)について)新しい規制基準に適合していることを認めた。安全でないとも言っていないし、安全であるとも言っていない。(2014/12/17) 」とおっしゃっている。その時の記者会見で、記者から「安倍首相が会見で、いわゆる規制委が再稼働に求められる安全性を確認した原発については再稼働を進めるという表現をされたのですが、再稼働に求められる安全性というのは確認できたという理解でしょうか?」と問われて「総理は政治家だから、いろいろなそういう言い方をされますよ。分かりやすくという意味で。でも、私の方は、安全とか安全でないとか、安全が確認されたとか 安全でないことが確認されたとかそういう言い方ではなくて、稼働に際して必要な条件を満たしているかどうかということの審査をしたということです。そのこ とイコール、では事故ゼロかというと、そんなことはないだろうと(後略)」なるほど、田中委員長は科学者としての立場をしっかり守っていると思う。客観的に見れば、世の中に「絶対安全」はあり得ない。
こうしたやりとりを聞くと、ワタシは就農まもなく受けた、有機JAS法の講習会のときのことを思い出す。当時の農林水産消費技術センターの担当官僚の講義は、冒頭の次の言葉で始まった。「有機JAS規格は農産物の安全性を保証する規格ではありません。単に、その規格が求めている基準に沿って生産されたものであることを示すだけです」では何のための規格なのか?その説明はそこでは割愛されていた。(ちなみにその答えは「農業の持続性」と「環境保全」である)
田中委員長の発言には、その農水官僚と同じ欠落があるとワタシは思う。それは「自分はなんのためにこのシゴトをしているのか、このシゴトをどのように役立ててほしいのか」というメッセージだ。

科学者に言ってほしいこと
科学ができることは、端的に言えば、「現在の知見からいえばAならばBである」ということだと思うけど、絶対安全というのがあり得ないということは「B=安全」はあり得ないということでしょう。安全ではないならば、どの程度アブナイのか、いざという時それは許容できるのか、そもそもアブナさと比べて十分な効用があるのか?そういうことを考えなくちゃいけないよね。それは科学の問題ではなく、価値判断の問題。別の言い方をすれば、それは自然科学の問題ではなく、社会科学の問題ともいえる。
つまり、不肖ワタシとしてはだ、田中委員長に「ここまでは言えるので、それを使って再稼働を判断していってもらいたい。政府はこれで良しといってるが、考え方によって、再稼働の是非は異なる。政府の方針は最終方針ではないので、皆さんの意見、私達の意見を集約して結論をだしましょう」とでも言ってもらいたい、独立行政機関の長であり、また今一歩、科学者の立場に忠実ならば。
自分の知っている限り、科学は政治にいいように利用されてきたと思う。ちょっとややこしいのをいいことに、目くらましのごとく「学識経験者によるなんたら委員会によって決められた」ことがあたかも金科玉条になる。

「つくる」と「できる」
安倍総理は規制委員会の見解に従って再稼働するといい、田中委員長は安全とは言っていない、再稼働を決めるのは政治家だ、という。でも、再稼働にむけて社会は動いている。
無責任、といえばそのとおりだろう。太平洋戦争やら、バブル崩壊やら、原発事故やら、「クライシスが起きても誰も責任をとらないことがモンダイだ」とたびたび指摘されている。ひどい事故が起きたのに、それに懲りずに再稼働という流れは、またまた同じモンダイが起きているともいえる。この根っこにはいったいなにがあるのか?
私見をのべさせていただく。あくまで私見なので、エビデンスはない。
米なり、野菜なりを育て、収穫したとする。「自分がつくった」と思えばその全責任は自分にある。うまくいけば「自分の努力が実った」となるし、うまくいかなければ「自分に落ち度があった」となる。一方、「お天道様と大地の恵みでできた」と思えばその責任の少なくとも半分くらいは自分ではない。うまくいけば「お天道様と大地のめぐみ」だし、うまくいかなければ「神様のおぼしめし」だ。そこではしかし、結果における自分の努力なり技術なりの関係性も理解しているだろう。それでもなお、自身をとりまく「天と地」をいつも意識しているからこそ、天と地を敬い、また恐れる。
この前者は西欧的、後者は日本的といえるかもしれない。自身の全責任で作物づくりをすれば、自身の責任で結果を分析し、対応する。どこまでやるか、の価値判断は自身に委ねられている。そこでは自然科学も発達するだろう。一方、後者は自身の外側にアンタッチャブルな「神域」を設定している。「神域」を設定することで、自分をとりまくものを継続的に意識してきたはずだ。さわっていい場所、さわってはいけない場所を設定することによって、クライシスを防いできた側面もきっとあるだろう。また「神域」の存在は分析科学が近づきにくい条件でもあっただろう。

現代の「神域」再設定
ワタシが思うのは、今の私たちは「神域あり」のメンタリティのまま、「神域」を見失っているのではないか?ということだ。鎮守の森や結界が西洋科学の流入と共にどこか陳腐化(ごめんなさい)してしまい、意識の中から消えたまま、日常の経済社会の中で自身の力がおよびにくいものー例えば「科学」だったり「権威」だったり「権力」だったりするものに手っ取り早い「神域」の身代わりをみてしまってはいないだろうか?もしそうであるならば、それは「錯乱」に他なるまい。
ワタシたちの現在は、「天と地」のメンタリティを持ったまま、西洋的な分析科学の翼も併せ持つ。その力を総動員して「現実」と向き合わなければ、と思う。そしてその課題のひとつが、納得ずくでたとえば「原子力技術」をアンタッチャブルな「神域」のひとつに格上げすることではないか、と思うのだ。
これを「神の力」を借りずに自分たちで決めるべきだと思う。神の力を借りる、ということは破滅的な事故を経る、ということであろうから。(以上 フリーペーパー「AGRECO」Vol.82,2015.03に掲載)
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農は「出会い」を増やします

「まちの保育園」という東京の保育園をご存知だろうか?たしか、この「アグレコ」の発行人も確か昔Facebookで紹介していたような・・・、ちがったっけ?
この保育園の大きな特徴は保育園とまち(地域)をつなぐ中間領域に「ベーカリーカフェ」があり、各々をつなげる人材としてコミュニティーコーディネーターという職を置いているということらしい。

教育とか保育とかの本質はコミュニケーション
これは、この保育園の仕掛け人である松本理寿輝(りずき)さんという方の言葉だそうだ。実は私の場合、ラジオネタが多いのだが、今回もラジオネタ。作業をしながらNHKの「すっぴん!」というラジオ番組を聞いていて、やっていたのがこの「まちの保育園」探訪記だったのだ。ワタシが実際に見たわけではない。
ただ今30代前半の松本さんは学生時代に上のように考え、保育園園児の安全性を考えつつ地域とコミュニケーションを図っていくためには、それ自身が魅力的な「中間領域」を併設したらよいのでは?というアイディアを持っていたらしい。そして、それを実現するステップとして、自らのコミュニケーションや経営のスキルを高めることを目的に、広告代理店に就職したりベンチャー企業を立ち上げる。そうした過程を経て、保育園を現在3つ経営しているらしい、いやすごい。
話を聞いて感心したのは、今の保育環境の問題点を「こどもが出会う人はほとんど若い女性しかいない」とみて、もっと多様性を高める工夫がいると考えたことだ。保育士のほとんどが若い女性であり、核家族における育児の担い手はその9割がたは母親であり、父親の育児参加時間は一日30分程度とのこと。発達段階のこどもには地域のもっと多様な人との出会いが必要なのではないか?というのが松本さんの問題意識だったのだ。そこから、地域の中に開かれた保育園が構想され、地域との接点をつくる機能を、保育園とくっついているような、いないような良質のベーカリーカフェと、子どもと地域社会をつなぐ専門職員に担わせるしくみをつくり、それは大人気を呼んでいるというお話だった。この事業の本質的なシゴトは単に保育に留まらず、子どもを核に地域づくりをしていくということともいえるだろう。

たべものの本質もコミニュケーション
この話を聞いていて、「こども」も「たべもの」も似ているなぁ、とワタシは思わざるを得なかった。
たべものにも、多様な生きものの関わりが欠かせない。そしてたべものを大切にすることが地域を豊かにしていくと思うのだ。
たべものは、タベモノである前にイキモノである。あれ、前々回だったかも同じようなこと書いたかな^^; たべものは、ヒトとヒトをつなぎ、ヒトとイキモノをつなぐ。たべものの先にはヒトがいるし、イキモノがいる。
ここで、もしヒトと自然はキホン別物である、という考えに立てば、たとえば、「どっちに合わせるか」という話になりがちなのではないだろうか。ヒトは自然と孤独に独立し、その責任をどう果たすか、かなりの難問がでてきちゃうのではないだろうか。(下図(1))
しかし、ヒトはイキモノの一種であり、キホン同等だと思えれば、これらの関係性を取り巻いているのは、ヒトの対立概念としての「自然」ではなく「天と地」である。(下図(2))
ワタシ達は、たべものを通して、ヒトと出会うこともでき、イキモノと出会うこともできる。ヒトを通してまったく知らなかった別のタベモノ・イキモノと出会うこともできるし、タベモノ・イキモノを通してまったく知らなかったヒトと出会うこともできる。これらはすべて「天と地と出会う」ということだ。

単にヒトとヒトが出会い影響しあうだけでは、そのヒトたちの多様性の範囲は限定的だ。いずれにせよお互いの世界に留まっている。しかし、天と地の多様性はヒトの多様性の源泉でもある。天と地との各々の関わり方でヒトの個性が際立ってくる、とワタシは考えている。
出会い20150129


天と地と、もっと出会いたい
少し前に、ソーラー発電普及の大切さを説いている方に、「パネルの廃棄に伴う問題点はあるか?」と質問したところ、「基本的にたいしたことはないと思うが、人間が文明の利益を享受する以上、自然にある程度インパクトがあるのは当然だ」という意味の答えが返ってきた。
ワタシに言わせれば、文明の利益を享受しようがしまいが、イキモノである以上、他のイキモノと同様に天と地にインパクトを当然与える。モンダイはどういうインパクトがどの程度あるのか、を考えなくちゃいけないのが今日この頃のワタシタチなのだ、ということなのである。
で、ある種のそれが、天と地の中でまるく収まるインパクトなのか、収まらないインパクトなのかを客観的に判断する基準、これはワタシはないと思っている。インパクトは少なければ少ないほどいい、という考えの方もたくさんいらっしゃることは知っている。しかし、私見をあえて言わせてもらえば、小さければいいというものではない。なぜならば、イキモノはイキモノを支えている。ヒトが生活することによって支えている生き物もたくさんいるのである。
ひとつひとつの具体をどう考えるのか、どうするのか。
それを決めるのは、社会であり、その社会を構成するおのおのがどう考え、どう合意していくのか、というのがモンダイなのである。
だから、ワタシ達は天と地との出会いをもっとふやさなきゃならない、と思っているのだ。「農」はそんな出会いにぴったりだと思うんです。どうでしょう?(以上 フリーペーパー「AGRECO」Vol.81,2015.02に掲載)

ヘイトと祈り

桜井誠さんという方の「大嫌韓時代 」という本がAmazonでベストセラーだそうだ。氏は大久保のコリアンストリートや京都の朝鮮学校などでいわゆる「ヘイトスピーチ」をやっている在特会の代表。Amazonの書評コメントは絶賛のオンパレードで最高の5つ星評価だらけ、となっている。
世間の書店では嫌中嫌韓の本がごっそり平積みされているといううわさも聞くなぁ。ちなみにラジオで雑誌VOICE(PHP研究所)の編集長が、実に正直なことに「嫌中嫌韓で特集を組むと売上が3-4割増えるので、ついついやってしまう」と話しているのを聞いたことがある。

ヘイトの役割
時の政権が「国内問題を隠ぺいするために国外に敵をつくる」とはよく言われることだけど、これらの現象はそれだけが理由じゃないだろう。国外に敵を作れば税金で武器を買いやすくなることから始まって、ビッグなビジネスチャンスが転がり込む人たちだっているはずだ。現に活字媒体の人はそんな空気に掉さすことによってビジネスをしている、と前述のようにはっきりおっしゃっている。つまり、国外問題をつくることによってビジネスをしている、という見方もできるだろう。

しかし、どう考えてみてもこれは危ういよね。尖閣の危険をいいつのることによって警備レベルを上げ、万一ドンパチがあれば、血を流すのは命令に従って出向いた現場のどなたかだ。それはおそらくだが、ヘイトスピーチをしていた人でも、雑誌の売り上げを3-4割上げた人でもないだろう。
命をかけて尖閣を守ろう、なんていったい誰がいえるのだろうか。もしそれをいうなら、その前に命をかけて福島を守ろう、というべきだろう。

エジプトでムバラク大統領を倒したアラブの春、というのも記憶に新しい。しかし、その結果は惨憺たるものになった。誰かーたとえばムバラクという悪者像を作って攻撃する、それは社会が不安定になると起きやすいことだ。しかし、単なる憎しみを駆動力とするムーブメントだとしたら、それは「創造性」を持ちにくいために失敗することはきっと約束されている。今、中東では「イスラム国」の蛮行が世間を震わせている。しかし、意図的に「わざと怒りと憎しみを売る」行為をしているように思えてならない、といったら考えすぎだろうか。

「トンデモな連中だから、たたきつぶしてもいい」ならば、儲かる人もいっぱいいるのは確かだ。大きな問題は、世の常として、たたきつぶされるのは「トンデモな人」ばかりとは限らない、ということだ。

経済と政治の保守がヘイトを生み出す
ニッポンは首相を先頭に保守化しているとも言われる。しかし、宮台真司さんという社会学者にいわせれば、保守にもいろいろあるらしい 。本来の保守は「社会保守」とのこと。例えとしてはフランス革命の混乱から、あるいはアジアの単純欧化主義からその社会らしさを保全することであり、最近の出来事で言えば沖縄知事選で勝利した翁長さんが唱えた「沖縄らしさを守る」ということ。それに対して現代日本では「経済保守」と「政治保守」が分化しているそうな。

経済保守は端的に言えば「景気回復、この道しかない(アベノミクス)」である。新自由主義的施策で巨大企業の収益・株価を上げて、やがては社会のすみずみまでお金をしたたりおとす(トリクルダウン)という思想。ところが、バブル崩壊以降、空前の長期景気といわれたリーマンショック前の好況時にもトリクルダウンは起こらなかった。最近有名なピケティという経済学者は、統計的に過去トリクルダウンが起きたことはない、と結論付けているそうだ。
そして経済保守によるグローバル化進展の結果、中間層が分解し、家族や共同体が空洞化する。そして社会が空洞化すると、それを埋め合わせるために政治保守、つまり全体主義が台頭するという。つまりヘイトがはやっているの理由は、宣伝だけでもない。確かに今、ヘイトが求められているのかもしれない。

宮台さんがいうには、ヨーロッパ社会はアメリカ社会よりある意味かなりまともであり、まともな社会は社会を保全しようとするとのこと。経済を回すにしても、政治的イデオロギーについても社会に役立つ限りにおいて意味があるので、経済保守も政治保守も本末転倒だというのだ。

原発に祈る
原発事故が起きて間もなく、我が畑近辺に無視しがたいレベルの放射能汚染がある、とわかった時の気持ちをどう説明したらいいだろうか。天と地の恵みを受けながら、自分たちが育て上げた野菜が汚染されていると知った時、なんとも表現しがたい澱みたいなものが胸の中につかえた。単純化していえば「穢された」という感じである。

この「澱」は持って行き場がなかった。

事故まもなく、福島県須賀川市である有機農家の方が自殺したが、彼はきっとワタシよりもずっとやっかいな「澱」を感じていたんだろうと思う。

そんな時、「原発に祈っている」という人の話を聞いた。橋口いくよさんという方で「40年間、耐用年数を10年過ぎてまで酷使され、ろくな手当てもされず、安全管理も手抜きされ、あげくに地震と津波で機能不全に陥った原発に対して、日本中がまるで「原子怪獣」に向けるような嫌悪と恐怖のまなざしを向けている。それでは原発が気の毒だ、と橋口さんは言った。誰かが”40年間働いてくれて、ありがとう”と言わなければ、原発だって浮かばれない、と」

ワタシは正直、この話で救われた。いま、ここにあるような放射能は基本、あってはならないもの、忌み嫌うもの-という澱んだ意識が漸く流動性を持ち始めたように感じたものだ。
自分が無傷であれば、祈っても・祈らなくても・どっちでもよい。しかし、傷があることを自覚すればこそホントに祈ることができるような気がしたものだ。

祈ることにより、たたきつぶさないで、供養することができる。供養することで自分の心の中に原発や放射能の居場所をつくることできる、そんな気がするのだ。

当然だけど、中国や韓国の人々と原発や放射能が同じだといっているのではない。いいたいことは、対象が誰であれ何であれ、ヘイトは本人や社会にとってやっぱいいことはない、ということ。「悪魔の農薬ネオニコチノイド」という本もあったけど、ワタシは題名からしてこれは読む気にならない。
おそらくモンダイの多くは「人やモノ」ではなく「しくみ」に存在する。そうであれば、どんな人が当事者でも、「しくみ」を工夫することである程度モンダイを回避できる可能性はある。
だから、たとえば原発モンダイについては原子力ムラの人を排除することでおそらく問題は解決しない。デモで「あいつばダメだ」「こいつをつぶせ」といったとしても、まったくの無駄だろう。誰かが去っても、また同じ役割を持つ人が出てくる。ちなみにここんとこの本質は「なんたら協定」というしくみなんではないのか、とワタシは考えている。

いやぁ、喧嘩ばかりしてるヒトがきれいごといっちゃって、と聞こえてきました(^^)
そのとおりであります。だけど、喧嘩ばかりしているからこそ感じている、ということで・・・。

(以上 フリーペーパー「AGRECO」Vol.80,2015.01に掲載したものを加筆・修正)

他人への不信と自身への不信

少し前にフリーペーパー「アグレコ」に掲載してもらったものです。
少々加筆し、こちらに再掲させていただきます。

****************************
5月なかばに「美味しんぼ 福島の真実㉔」が掲載された雑誌が発売された。美味しんぼはこの号の後、当初からの予定通りしばらく休載するらしい。
 この連載で描かれた放射能による健康被害としての鼻血や倦怠感について、また、福島から避難するかしないかについて、メディアで様々な意見が飛び交っていたことを皆さんもご存じの事と思う。ワタシはこのところほとんど漫画を読む機会がないもので、この話題の連載も一切読んでいなかったが、このシリーズの最終話が掲載されたこの号のみ近所のコンビニで購入し読んでみた。
なので、この作品全体について、ワタシは特になにかを言える立場にはない。だけど、読んだ範囲、知る範囲でこの作品について書くことは「安全・安心」を考えるヒントのひとつになるような気がしている。

さしあたり、「真実」はいらない
ワタシとしては報道された「福島の真実」というシリーズ名を聞いただけで、若干食傷気味・・・という感じがしていた。というのは、(詳しい語義の検討は書略させていただくが)「福島の真実」というのは「福島のほんとうのこと」という意味であり、「ほんとうのこと」を示そうというからには、暗黙の前提として「ウソがまかりとおっている」状況がある、と作者は考えているのであろう、と思ったから。「真実」という言葉の裏側には作者の強い「他人への不信」がある、と私には感じられた。
 確かにうそは世間一般にあふれているだろう。ワタシも個人的事情からはじまって、毎日ウソ偽りなく生活しています!とはちょっと胸を張って言えない。放射能の健康被害、という社会的事情についても、利害関係者から発せられる様々な「ウソ」は実際に存在する、とワタシも思う。

 しかし、改めて申し上げるまでもないとは思うが、「ウソ」ではない「真実」も複数あるのが普通ではないのだろうか。ひろーい世間じゃ、ただひとつの事実をもって「真実」とする視点もあるし、それを「ウソ」と断定する視点も「真実」のひとつでありうる。なにかによる健康被害については、このへんは顕著だ。だって、世間一般の常識である「タバコは体に悪い・寿命を縮める」ということだって、80才、90才で元気にタバコを吸っている人にとっては「ウソ」でしょう?
 作者が取材後に鼻血を出したり、倦怠感を感じたことは事実かもしれない。また、他にも同じような経験をした方もいるかもしれない。しかし、それだけで、低線量放射線で体が壊れるということが「真実」だと言ってしまうとすれば、ワタシとしてはやはり早計だろうと思う。ある観察された病態の因果関係に普遍性があるかどうかを調べるのは、疫学のシゴトだろうけれども、その疫学で結論が出ていないので、みなさん困っているのである。さらに登場人物中の権威筋が「福島の人たちに危ないところから逃げる勇気をもってほしいと言いたい」と重厚に語ってるとなれば、その「福島」ってどこからどこまで?ということから始まって、鼻血だけで住む場所変えられんよなぁ、とか低線量放射線下で住むか住まないかを決めるのは勇気の問題じゃなくて、個人の判断の問題じゃないの?とか思ってしまう。

しかしながら、低線量放射線でも、鼻血や倦怠感の他、頭痛やめまいといった症状の人が増加する、という指摘も確かあり、その「疑い」があるというのは事実だろう。だから「疑い」の根拠さえ信頼できるものだったら、「疑い」であるだけで当面は十分だと思うのだ。信じるところは別にあるにしても、「疑いがある」と認めることは、自分の真実を否定するよりも格段に簡単なはずだ。これができれば、「じゃ、調べてみよう」ということになるのが、大人の対応でしょう。「疑い」の存在さえ合意できれば、自身被害を受けている、と感じている人に寄り添うこともできる。そして、これを当面は「真実」にする必要はない。むしろ「真実」の弊害の方が大きいのではないだろうか?その押し付け合いには歩み寄りや合意はあり得ないであろうからだ。

ちなみに、だからといって「美味しんぼ」は掲載されるべきではなく、作者や編集者は謝罪して撤回すべきだというつもりはない。「福島の真実」は作者にとってはやはり「真実」なのだろうし、共感する人もきっと多いに違いない。こうしたことで大切な点は、主張する自由と反論する自由、両者だということだと思う。

「わからない」つよさ
放射線の健康影響を心配する方の気持ちはよくわかる。しかし、天然の放射線の中で人類も進化してきている訳で、放射線を100%排除することはできないし、またする必要もないだろう。それでもセシウムゼロベクレルを求めることを、あるひとは「ゼロリスク症候群」と呼ぶ。実生活では様々な種類のリスクが存在しているにもかかわらず、ある特定の事物のみゼロリスクを要求することを指す。
 一方、学会系の原子力専門家は100ミリシーベルト以下の健康影響は、他のリスクに隠れてわからなくなるくらいなので安全です、とおっしゃる方が多い。よく考えると、この人たちもリスクは実質的にはゼロだといっているわけで、ゼロリスクを前提にして行動判断する(しなさい)という意味でやはりゼロリスク症候群だろう。ゼロベクレルの食べ物を求める人も、ゼロベクレルでなくても大丈夫だという人も、両者自分の信ずるところ(=自分の真実)は既に決まっていて、決して歩み寄ることはないだろう。つまり「どう考えましょうか?」とか「調べてみましょうか?」ということにはならない。
信ずるところが「わからない」人は逆に強い。なぜなら、リスクの本質は「わからない」ということであり、そのわからなさを前提に「どうするっぺ?」ということがリスク管理だとワタシは思うのだ。そこには他人へではない「自身への不信」の自覚がねっこにあり、だからこそ人のつながりを尊重し、それは歩み寄りをもたらす。

みんなで決める
 「みんなで決めた「安心」のかたち」 という本がある。

サブタイトルは[ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年]となっている。 広域のホットスポットとなってしまった柏で、地縁とは切ってもきれない生産者と、食べ物の産地は本来自由に選べる消費者が、流通をになう人やレストランのシェフ、測定所を始めたベンチャー企業家、地元在住の学者ら周囲にいる人たちと共に、自分たちの「地産地消」のかたちを決めていく記録である。

 地域に生きる生産者は、事故直後自らの生産物の放射能検査にはおよび腰だった。万一クロと出れば地域全体の農業に致命的な打撃が出かねない。一方、地元産物に強い不安を感じている主婦たちは、放射能がらみに消極的な地元生産者に不信感を持ち始めていた・・・。そんな状況から始めた関係者の円卓会議。最初のころは重苦しい空気だったという。しかし、ある幼稚園で行ったアンケート調査をきっかけに歩み寄りが始まり、独自の測定メソッドを設計してリスクを手なずけ、柏産の農産物の生産・消費、だけでなく地域の人と人のつながり、それをひっくるめた地域の「豊かさ」を維持する過程を、活動の中心を担った若手学者の手記+たくさんの当事者たちの肉声でまとめた立体的な本。
 もし、生産者が地域のいち生産者としての真実のみ、主婦が子育てのための放射能ゼロという真実のみを求め続けていたとしたら、崩壊していた豊かさがあったことに気づく。
それをこの人たちが実現できたのはなぜなのか?この本を読んで考えさせられた。

真実は、時に個人を悩ませ、人と人を戦わせる魔力をもつもの。だから「ホントのこと」を「バラッド(悲劇)」として歌い、送り出すこともたまには私達に必要かと思う。


こちらも大雪

地元・群馬県高崎市倉渕町の積雪は多分1m超かと。
15日朝4:00に起きだして、そとをみて「なんじゃこりゃ」。
すぐに停電になって、ハウス等の状況確認と除雪をするべく外に出る。
ウチのハウスは、少なくとも2棟が全壊。他の3棟はいまだ確認にいけない状態だけどまずダメでしょうなぁ。
DSCF2625t.jpg

半日近くかけて、除雪用にトラクタをなんとか写真の倉庫用のハウスから救出。しかし、道路までの坂道が登れず出動不能。一方、木とカミとトタンでできた我が家は、一部障子が開かなくなったので倒壊危険の黄信号が点滅。で、15日は家の雪下ろしに追われる。倉庫用ハウスが倒壊したので、普段に増して道具不足の我が家に、ご近所の暖かい救いの手で脚立や長尺の雪かきスクレイパーが大活躍した。ちなみにこのときの家族総出の共同作業は、ひょっとして初めてかもしれない。

その晩は久しぶりにヒールフリーのテレマークの板をつけて、トラクタに向かう。ツボ足で1mの新雪を歩くのはつらかったからね。トラクタ前方の坂道をスコップで除雪して、なんとか市道まで上げたところで作業終了。そこの市道は除雪がはいっていなかったから、バケット付トラクターでも簡単には先には行けない。

16日は隣組長が音頭を取ってくれたので、隣組メンバー共同で、各戸から除雪済み県道までのアクセルルート確保のための除雪作業を、AM9:00からすることになっていた。ワタシは隣組長と打ち合わせをして、一足先にバケット付トラクターで市道を除雪しながら自分たちの集落に向かう。
DSCF2628t.jpg

ところがここで、まさかのバケットトラブル。いきなりバケットのアームが上がらなくなった。こうなると除雪どころじゃあない。下がりっぱなしのバケットがブレーキになって自走もままならない。
幸い日曜にもかかわらず農協の機械担当氏が電話に出てくれて、原因について意見を聞いたけどどうも素人修理じゃ難しそうとのこと。思いっきり、かつたいへん悔しいがしょうがない!とばかりあきらめて、なんとかごまかしながらバックで今朝のスタート地点まで戻る。道の真ん中に置きっぱなしじゃ、除雪車がきたとしてもそこから除雪不能になっちゃうもんね。
ということで、それからはご近所さんたちとスコップで1mの雪を除雪。道路愛護と呼ばれる年3回の共同道路清掃作業でおなじみの面々だが、今日は気合が違う。煙草を吸ってる人とか、すきをみてのサボタージュなどは皆無。つぎつぎと道路が開通していった。ひとり機械でさっさと除雪するより、ご近所にはある意味いいのかも?とふと思ったものだ。

とは言え、お年寄りが多いのもわが隣組の事実。その後の家族総出の除雪作業2の後は、マニュアルを引っ張り出してトラクタの故障原因を検討。油圧バルブのスイッチあたりかと見当をつけて再びトラクターに向かった。
すると故障個所は案の定、しかし、具体的には予想を超えて単純だった。詳しくは割愛するが、針金でとあるリンクを縛ればなんとかバケットを動かせることが分かった。
朝の続きを再開し、トラクタが動き始めたのは夕方だったが、集落に近づけばやっぱりお年寄りがひとりで雪かきをしている。聞けば車庫と午前中開通した生活道路の間を除雪して明日軽トラを使いたい、とのこと。
こんな時はやっぱり機械があってよかったと思うのだ。

ところで、想定外の積雪というのは、ある意味かなり危険だよね。一気に広域が物理的移動不能になる。こうなると集落は孤立、街中だってコンビニやスーパーに物がなくなる。
そこへ持ってきて停電が約半日で終わったわが界隈はよかったが、もしそれが長引けば孤立集落の状況把握は困難になる。
トラクタがトラぶった時、農協さんの他にご近所の機械好きの友人に助言を求めたんだけど、彼の集落は完全に孤立している、と言っていた。ここの隣組と違って、誰も除雪をしないらしい。同じ山村でもずいぶん違うものだ、とも思ったけど、ひょっとしたらその集落の家々はライフラインの心配は無用で、食糧備蓄も充分ということで緊急時即応能力が高い、ということなのかもしれない。

Facebook等を見ると、山梨が孤立状態でたいへんだという話や、道路上で立ち往生している人がたくさんいるという情報が伝わってくる。まだまだ、伝わってきていない情報はたくさんあるだろう。なにしろ、うちの界隈だって、隣の集落の状況や、一人暮らしのお年寄りの状況はなかなか伝わってこないんだから。
プロフィール

rainfrog23

Author:rainfrog23
就農15年目、群馬県高崎市の野菜農家のおやじ。30代までは都心に勤めるサラリーマンだった。生き物がたくさんいる環境での仕事を望み百姓志願。農園の名前、みずき彩菜(さいさい)です。

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